嬬恋村紹介

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嬬恋村村民憲章

嬬恋村村民憲章

■嬬恋村村民憲章
外輪は嬬恋村の特産であるキャベツを図案化したもので、中央は「嬬」の図案化で全村の円満なる発展を祝福したものです。


なげかけることばにほほえみを さしだすその手にぬくもりを
 まごいの 野菜・山菜 母の味
 ず健康 わきだす泉の知恵をそえ
 くろうさま 働く喜び野にこだま
 つまでも 浅間のような たくましさ
 びとが ほこる歴史と 文化財

(昭和55年4月21日制定)

リンドウ

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白樺

白樺

ヤマメ

ヤマメ

沿革

嬬恋村の歴史は、村内各地から発見される石器や土器などから、約6千年前の縄文時代にさかのぼります。以来、関東地方と中部高地の両縄文文化の影響を受けて著しい発達を遂げました。古代国家の成立する頃は、目立つ動きはみられませんでしたが、律令体制の末期とされる平安時代になると、各所に住居が造られ集落も形成されるようになりました。

文献的史料によるとそのころの嬬恋村は、「三原庄」とか「吾妻庄」と言われ、信濃源氏の末裔とされる海野氏の支配下にあったとされます。鎌倉時代になると、海野氏の一族である下屋氏の治める地となり、やがて、その子孫である鎌原氏の支配する所となりました。戦国動乱の世にあっては真田氏の領地となり、江戸幕府が成立すると真田氏の沼田藩領となりました。その支配は天和元年(1681)の真田氏改易まで続き、その後は幕府直轄領となり明治維新まで代官所による支配が続きました。

この間、江戸時代を中心とする時期には、上州と信州を結ぶ街道が整備され、沿道には宿場が設けられ、大笹には関所も置かれるなど、人馬の往来でにぎわいました。また天明3年(1783)には浅間山の噴火がありました。噴火に起因する”土砂なだれ”は、浅間山北麓に大きな災害を発生させました。特に鎌原村は犠牲者477名など壊滅的な被害を受けました。

明治22年の市町村制の施行に伴い、かつての田代・大笹・干俣・大前・門貝・西窪・鎌原・芦生田・今井・袋倉・三原の各村が合併して、現在の嬬恋村が誕生しました。村名は、日本武尊と愛妻弟橘媛との間のロマンに満ちた伝説に由来するものです。

嬬恋村の名前の由来

第12代景行天皇の皇子「日本武尊(やまとたけるのみこと)」の東征中に、海の神の怒りを静めるために愛妻「弟橘姫(おとたちばなひめ)」が海に身を投じました。その東征の帰路、碓日坂(今の鳥居峠)にお立ちになり、亡き妻を追慕のあまり「吾嬬者耶(あづまはや)」(ああ、わが妻よ、恋しい)とお嘆きになって妻をいとおしまれたという故事にちなんで嬬恋村と名付けられました。

地勢

嬬恋村は群馬県の西北部に位置し、東は長野原町・草津町に、西・南・北の三方は長野県に接しています。村の東部を除く外周には、浅間山・湯の丸・吾妻山(四阿山)・白根山などの標高2,000m級の山々が連なり、日本の大分水嶺をなしています。

村の中央部を西から東に吾妻川が流れ、集落の大部分はこの流域に散在しています。地質は火山灰土の腐食土壌が多く、高原野菜の適地となっています。

気候は高原地帯だけに夏でも涼しく年間の平均気温は8℃前後で、1日の温度差が大きいのが特徴です。特に気温・湿度は避暑に最適であり、軽井沢にまさる避暑地で、最近では浅間高原1帯が1大別荘地としても脚光を浴びています。

嬬恋村村勢要覧 ※各種資料がダウンロードできます

総合計画編(第四次)PDFファイル(967KB)このリンクは別ウィンドウで開きます

要覧編(P1-11)PDFファイル(3176KB)このリンクは別ウィンドウで開きます

要覧編(P12-22)PDFファイル(1035KB)このリンクは別ウィンドウで開きます

統計編PDFファイル(185KB)このリンクは別ウィンドウで開きます